終了致しました。
たくさんのご参加ありがとうございました。

「意識・自己・人格:人として生きるとはどのようなことか」

2023年2月21日(火)14:00~
【第93回】講師:富山 豊 先生

ANNOUNCEMENT

古賀Facebookより

【第93回AT-1告知】
次回のエンジェル寺子屋一番館(AT-1)の募集を開始します!
開催日は2月21日(火)で、講師には先月に引き続き東大より、哲学を専門とされている富山豊先生にお越しいただきます!
富山先生とは、かれこれ5〜6年前から「哲学の会」という有志の勉強で定期的にお会いし、哲学を学ばせていただいております。
私は元々"哲学的な思考"というものに興味があり、その実践が比較的得意でもありますが、これまで「学問としての哲学」をきちんと学んだことはありませんでした。
ですので、この「哲学の会」にて富山先生から、カントやデカルトをはじめとした「哲学界の偉人」のことをいろいろと教えていただきながら、少しずつそちらに対しての教養も深めて来ている次第です。
(とは言え未だに、先生のプロフィールにある「フッサール」を「フットサル」と誤読するレベルですw)
今回はそんな富山先生から「意識・自己・人格:人として生きるとはどのようなことか」と題して、2時間お話しいただきます。
私から先生にお願いしたのは「哲学概論」のような講義で、おそらく(主に西洋の)哲学の大家の考え方を引用しつつ「これを聴けば学問としての哲学の入口を理解できる!」というような内容になっているハズです。
考えてみれば、これまでのAT-1でも真正面から「哲学」というテーマを扱ったことはありませんので、そういう意味でも初の試みとなります!

SEMINAR REPORT

セミナー議事録

《管理人の独り言》

今回は哲学を専門とされている富山豊先生に「意識・自己・人格:人として生きるとはどのようなことか」というテーマでお話しいただきました。

AT-1開講以来、様々なテーマについて講話を拝聴させていただきましたが「哲学」についてお聞きしたのは今回が初めてでした。
まずは入門編として「人格」というテーマで哲学の議論の仕方を学ばせていただきました。
予想していた通り、対談も含めてたった3時間半という限られた時間で理解するには奥が深すぎました(汗)
しかし、私のような初心者でも富山先生の講話は大変わかりやすく、先生がおっしゃっていた「哲学とは人物の名前や言葉を暗記する学問ではなく“納得がいくまで議論し考える”学問である」ということを少し理解できたようで最後まで楽しく学ぶことができました。
議論を重ねることは物事の本質を見抜く力を養うための大切方法であり、もっと身近なものとして広く学ばれるべき学問であると感じました^^

来月からは河添恵子先生による3ヶ月連続講話となります!!
『世界の大転換期と日本のこれから』というテーマで3部作でご準備いただいておりますので是非ご参加くださいませ^^

《セミナー・懇親会風景》







《参加者みなさまのご感想》

・普段こういった形で哲学というものに触れる機会がないので非常に稀有な、また有意義な体験でした。ただ今日の話を聞いていく中で感じた事は、私が普段からAT-1で学んでいる事は全て今日の哲学的な見方、人とは、意識とは、人格とはという話に紐付いているという事です。未来を選択する重要性ははせくらみゆきさんから、人格を形成していくのに必要な理性と欲求、そしてそこからの意欲を形成するのは林秀臣先生から学んでいることそのもので、人として成熟していくためのプロセスを踏んでいるなということを再認識できました。

・哲学のお話、面白かったです。たぶん真面目に聞いたのは人生で初めてです。"人として生きるとはどのようなことか”ってあまり深く考えすぎると頭がおかしくなりそうです(笑)

・難しいが自分にも(誰でも)関係することなので、近くにはある。生き方として自分に素直に生きたい。

・日本人の多くがもっと学ぶべきが哲学や倫理観だと思っていたのと、自分自身が非常に興味深かったので楽しかったです。より深く学びたいなと思いました。

※たくさんの中のほんの一部になりますが、抜粋して掲載させていただきました。本当にありがとうございました。

《古賀Facebookより》

【第93回AT-1報告】
昨日は93回目のAT-1でした。
今回は東大、横国、慶應等で哲学の教鞭を執られている富山先生を講師にお迎えし、「意識・自己・人格:人として生きるとはどのようなことか」と題してお話しいただきました。

富山さんが冒頭おっしゃった「哲学とは考えることに意味がある学問です」という言葉の通り、対談まで通していろんなことを考えっぱなしの3時間半でした。

新生児や脳死患者を例に出しながらの「どこからがヒトで、どこまでがヒトなのか?」という問いに始まり、「ヒトとヒト以外の線引き」についても深考して行きました。
その過程で"道徳的行為者(moral agent)"と"道徳的要配慮者(moral patient)"という面白い考え方を教わったので、ここでご紹介しておきますね。

人が故意に他者を傷つける行為は道徳的に非難されますし、逆に被害者を救済すれば道徳的に賞賛されます。
一方、犬が人に噛みついてもその行為自体は道徳的に非難されませんし、高所から落下した人が植え込みによって衝撃を和らげられたとしても、その植え込みは道徳的に賞賛はされません。
このように「道徳的に良い/悪い行為」をしたと評価される者が"道徳的行為者"です。
これがヒトをヒトたらしめている所以であるという説ですね。

しかし、犬が"道徳的行為者"ではないからと言って犬と道徳や倫理が無関係な訳ではなく、例えば犬を虐待している人は「犬に対して悪いことをしている」と考えられ、非難されることがあります。
他方、新聞紙を破いても「新聞紙に悪いことをした」とか「新聞紙がかわいそうだ」とは普通は考えません。
つまり、犬は自ら道徳的に良い/悪い行為を為しうる"道徳的行為者"ではないが、道徳的に良い/悪い行為を被ることができ、それに対して道徳的に良い行為が為され、悪い行為が為されないように配慮されるべき"道徳的要配慮者"ではあるのです。

この"道徳的要配慮者"という考え方も複雑で、動物実験や食肉等の問題に関連して「"道徳的要配慮者"の範囲がどこまでなのか?」という問い一つとっても、なかなか一筋縄では行きません。
対談の中でも「牛を食べるのはOKで犬を食べるのがNGであることに対する論理的な説明は可能なのか?」や「動物や植物に意識や心はあるのか?」といったことについても、いろいろと議論を深めました。

その他にも
・意識を持っているか否か
・コミュニケーション能力の有無
・「クオリア」を持った意識
・自と他を分ける視点
等が「ヒトとヒト以外の線引き」において重要であるというお話でしたが、当然この議論にも結論(正解)というものはありません。
しかし総じて、ウォレンの言う「自己の概念(自我)と自己意識」やハイデガーの言う「人間はまずもって未来の可能性として存在する」という理論あたりが本質に近いのではないか?と富山さんはおっしゃってましたし、私もそのように感じました。
特にハイデガーの考え方には私も共感するところが多かったですね。

人間は常に「いま自分は何を為すのか?」という選択を迫られつつ生きており、これは「一瞬たりとも待ってくれない」という特別な性格を持っている。
仮に「これをやるかどうかは来週決めよう」と思ったとしても、その時点で「決断を来週に先延ばしする」という決断をしている訳です。
そして人間は過去も未来も引き受けて生きており、「代替不可能な存在」であるとハイデガーは定義しています。
彼の考え方を聴いていると、なんとなく東洋哲学っぽさを感じましたね。

また、フランクファートによる「二階の欲求」という話も興味深かったです。
これは「とにかくあれが食べたい!」という自己の生理的な欲求(一階の欲求)に対して、「自分はこうした欲求に振り回されない人間になりたい!」というメタ的な欲求(二階の欲求)を持つことができるのが人間という生き物である、という考え方です。
「こうした二階の欲求(意欲)によって、自分がどのような動機に従って行動する自分でありたいか?ということを自ら欲することができるのが"人格"の本質ではないか?」とフランクファートは語っていたそうです。
一般的にこれは「理性」というくくりで処理される性質のものなのかもしれませんが、これとマズローの「欲求5段階説」をミックスして考えてみても面白そうですね。

他にもたくさんのことを教えていただきましたが、長くなるので今回はこの辺で。 改めまして、お忙しい中にお時間を割いていただき、とても分かりやすい資料と共に哲学について教えてくださった富山先生、とても寒い中に全国からお集まりいただいた皆様、昨日も本当にありがとうございました。
少人数ではありましたが、その分一体感が出て「AT-1らしさ」を満喫していただけだのではないかと思います

来月からは河添ねーさんによる3カ月連続講座ですので、こちらもお楽しみに!